イエス・キリスト

私は、イエス・キリストを敬愛しています。もちろん、家庭連合の教祖である文鮮明師、韓鶴子総裁を尊敬し、慕っておりますが、だからと言ってイエス・キリストの救いの価値が下がるとは思っていません。むしろ、文先生がイエス様のことを教えて下さったからこそ、イエス様の価値がより深く理解できた、と思っています。

もと私はクリスチャンではありません。ただ、小学生の頃、仲がよかった友達のお母さんがクリスチャンで、日曜学校に通って讃美歌を歌ったことがあります。学校もカトリック系でしたから、自然とイエス・キリストには親しみを持っていました。

しかし信仰というと、何かにすがるもののように思えて、ミサに参加したこともなく、宗教的なものは敬遠していました。ただ、三浦綾子や遠藤周作の本などを読んで、どこか心が惹かれるものがありました。

大学に入って、家庭連合の信者になってから、信仰というものに対する捉え方が、変わりました。キリスト教会の礼拝にも、何回か参加したことがあります。もちろん、その教会の牧師には、私が家庭連合の信者であることをお話して、参加の許可を頂いた上でのことです。

2000年以上もイエス・キリストを愛し、信じてきた信仰は、素晴らしいものです。家庭連合の信者の中には、イエス・キリストは使命を果たせなかったと勘違いしている方もいるようですが、それは間違いです。イエス・キリストの十字架なくして、人類の救いはあり得ませんでした。

どうして私がそう思うかというと、そのキリスト教会の礼拝に参加した時、そこに霊的な感動があったからです。牧師が語る聖書の深い世界には、2000年の歴史を耐えて語り継がれる、神の声がありました。私は参加して、涙が止まらなかったことを覚えています。

だから私は、家庭連合以外の宗教を信じる方々を尊敬こそすれ、否定する気は毛頭ありません。人間は、それぞれ信じるところに従って、信仰すればよいのであって、それは仕事を選んだりするのと同じく、人生そのものです。自分の考えで他人を否定するのではなく、お互いに尊重する心が大切だと思っています。