満蒙開拓団
私の父方の祖父は、戦前、広島の田舎から、満蒙開拓団として、奉天(現在の瀋陽)と長春の間にある、昌図という都市に家族で移住しました。終戦で無一文になって、命からがら帰ってきたそうで、当時12歳だった父は、その頃のことをはっきりと覚えていたようです。
父は、既に他界していますが、生前満州のことをほとんど話そうとしませんでした。子どもの頃、食べ物を残すとえらく怒られて、「ご飯の一粒を作るのに、どれだけお百姓さんが苦労したのかわかるのか!」と言われたものです。その時に、満州から引き上げる時に、どれだけお腹がすいたか、話してくれたことがあります。
引き上げの時は、匪賊と言って、中国人から襲われるのが一番怖かったのだそうです。祖父はグループのまとめ役をしていて家族から離れてしまい、祖母と父、父の弟・妹の4人で逃げました。父は弟の手を握り、「手を放すんじゃないよ!」と祖母から言われて、必死に逃げたそうです。
子どもたちがお腹を空かせると、祖母は自分の食べるおにぎりを分けてくれたそうで、それを夢中で食べたことが忘れられないそうです。世界で一番おいしい料理とは、お腹を空かせた時の一杯のおかゆだ、とも話していました。
そうして苦労して奉天(現在の瀋陽)にたどり着いて、祖父と再会することができた時、祖母は号泣したそうです。よほどつらい経験だったのか、それ以降父は、満州での話をしようとはしませんでした。
今から20年ほど前、私は仕事で中国に駐在していたのですが、瀋陽に行ったことがあって、その時に足を延ばして昌図に行ってみました。子供の頃に聞いた「昌図」という都市名を、なぜか覚えていたからです。小さな都市ですが、それでもかつての満州鉄道が走っていて、立派な駅もありました。日本時代に建てた建築物もいくつか残っていて、それが現役で使われていると現地の方が言っていました。
こんな遠いところに日本人は移住してきて、終戦で全てを捨てて日本に逃げ帰ったのかと、いろいろと考えさせられました。私の祖父母は帰国できましたが、途中で死んでいった人も少なくなかったと思います。遠い祖国を想いながら、死んでいった人たち。もしかすると、私もこの世には生まれていなかったかもしれません。どうして日本国民は、こんな大変な目にあってしまったのでしょう。
大東亜戦争は、極東に新秩序を打ち立てるための、正義の戦いであったという意見があります。日本を守るための、防衛戦争だったとも言います。大義名分はいくらでもつけることができますが、国民の命と財産を賭けて、勝てないとわかっている戦争に突入していった当時の軍部や政治家、それをあおったマスコミ、そしてそれを許した国民自身が、判断を誤ったのだと私は思っています。
そして、国を守るために亡くなった兵士、犠牲になった国民の死を無駄なものにしないためにも、過去の歴史から学び、この日本を、他国から尊敬され自ら誇りを持てる国にすることが、今を生きる日本国民の務めなのではないかと思います。