昭和史 1926-1945(2)

前回の続きです。

1936年の二・二六事件の後、1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本陸軍と中国側が銃撃を行う、盧溝橋事件が起きます。それをきっかけにして、中国に対しては一撃を加えればおとなしくなるという中国一撃論のもと、上海から一気に首都南京まで攻め上がることとなり、1937年12月13日に南京が陥落します。
しかし、中国は一撃を受けて大人しくなるどころか揚子江沿いに移動して漢口(現在の武漢)に臨時政府を置きます。日本軍は1938年10月27日に漢口を陥落させますが、中国政府はさらに重慶に移動します。
日本国内では、南京陥落、漢口陥落と、マスコミが囃し立てて国民は提灯行列で祝いますが、中国一撃論どころか、泥沼の中国戦争になってしまったのです。

1939年5月には、ソ連と満州の国境付近で、ソ連と日本軍が衝突するノモンハン事件がおきます。日本から遠く離れた国境線など戦略的には対して意味はないのですが、大規模な軍事衝突となり、日本軍はソ連の脅威を改めて認識します。
同じころドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結び、1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が始まります。

1940年になると、ドイツに接近する日本を警戒する米国は、1月に屑鉄や航空燃料の対日輸出制限を行い、日本は衝撃を受けます。9月に日本は物資を求めて北部仏印に進出し、益々米国は日本を敵視します。一方でドイツは、ベルギー、フランス、オランダに対して連戦連勝、日本はドイツからの誘いにのり、1940年9月に日独伊三国同盟を結びます。米英と戦争をしているドイツと同盟するということは、米英を敵に回すということを意味し、これで米国との関係は修復不能なものとなりました。

1941年に入って、日本はなんとか外交力で米国との関係を取り戻そうとします。米国と戦争しても、国力では勝てないからです。しかし軍部は強硬で、7月に日本は石油を求めて南部仏印に進駐、米国はますます態度を硬化させ、ついに対日資産の凍結と石油の対日輸出を禁止します。
石油がなければ日本は何もできなくなり、これは日本に対する宣戦布告と同じ意味を持ちます。米国の石油禁輸解除の条件は、中国からの撤退、日独伊三国同盟の破棄など、日本が到底受け入れられるものではなく、日本は追い詰められる形で1941年12月8日に、真珠湾攻撃を以て対米開戦してしまいます。

米国相手に戦争をすれば、生産力の違いから、負けるのはわかっていたはずです。対米戦争に反対していた山本五十六が、奇襲先制攻撃という異常な作戦をとったのも、早期に戦争を終わらせる他方法がないと考えていたからです。それを理解しないマスコミは連戦連勝と煽り立て、日本国民は「やはり神国日本は強い」と湧き立ちました。しかし戦局はわずか半年で暗転し、日本は太平洋の拠点を全て失い、1945年3月10日の東京大空襲など本土を攻撃され、1945年8月に広島と長崎に原子爆弾を投下され、8月15日に終戦となるわけです。

1937年に日中戦争が始まってから1945年の終戦まで、わずか8年の間に、あっという間に日本が50年かけて築き上げたものが崩れ去ってしまったのは、なんということでしょうか。