イエス様の生涯と愛
家庭連合の文鮮明師が、イエス・キリストの生涯について語った内容を、まとめた本です。
私は元々クリスチャンではありませんが、家庭連合の教えを聞いて、イエス・キリストを知り、とても敬慕しています。
イエス・キリストの生涯は、苦労の連続でした。聖霊によるものとは言え世間的に見れば結婚前に身ごもった私生児であり、生まれたのは馬小屋で、エジプトで避難生活をしました。成人してから人々への伝道を始め、イスラエルの民は当初それを受け入れましたが、イスラエルの国教であるユダヤ教の律法学者たちの謀略によって、イエス・キリストは逮捕されました。イスラエルの民はみなイエス・キリストを非難し、弟子たちはイエス・キリストを見捨てて四散してしまい、イエス・キリストは十字架上で処刑されたのです。
キリスト教会では、イエス・キリストの十字架は、神が人類の罪を贖うために、予定されていたものだと教えます。
しかし、文鮮明師は、最初から予定されていたわけではなく、人間の不信仰によりイエス・キリストは十字架の道を行かざるを得なくなった、と言うのです。
この点は大きな違いであり、キリスト教会が文鮮明師の教えを異端とする理由は、ここにあります。イエス・キリストの絶対性を否定し、十字架の価値をないがしろにするものだ、と思われているからです。
しかし、家庭連合では、イエス・キリストの受難と十字架の救いをとても重要だと考えています。
神の願いは、全人類を罪から救済し、この地上に神の国を作ることです。イエス・キリストの願いは、それを実現することでしたが、神に選ばれたイスラエルの民がイエス・キリストを信じず、受け入れなかったので、十字架の道に行かざるを得なかったのです。その無念な思いは、「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という最後の言葉に集約されています。
もし、イエス・キリストが、神を否定し、十字架の道を逃れていたら、人々の罪を贖罪する道は途絶えていたでしょう。イエス・キリストの十字架の救いはとても重要なのです。イエス・キリストによって、天国への道が開かれました。その上で、この地上に、神の国を実現したいというのが神の願いであり、私たち信者の変わらぬ思いなのです。