キリスト教の本質(下)
「キリスト教の本質(下)」では、信仰、愛、神の実存、三位一体論、秘蹟、洗礼の水など、キリスト教の教義について、個別に批判しています。それぞれの批判については、キリスト教そのものに対する理解が必要で、哲学的な専門用語も使われているため、私には歯が立ちませんでした。
ただ、読みながら思ったことですが、フォイエルバッハが「キリスト教の本質」を書いた1841年以降、マルクスの「共産党宣言」(1948年)や、ダーウィンの「種の起原」(1859年)、マルクスの「資本論」(1867年)など、共産主義の理論的な根拠となる本が多く書かれました。
キリスト教を代表とする一神教、それも人格神を否定する、積極的な無神論が登場し、それが共産主義という形に理論構築され、世界を席巻しました。
それが今日に至るまで、形を変えながら、世界に影響を与え続けています。
共産主義が生まれた背景には、西洋の伝統的なキリスト教があります。そしてキリスト教は政治的、経済的にも支配力を持っていました。
それを抑圧と考える人々が、神を憎み、神からの解放を叫び出して、共産主義が産声を上げたのです。
西洋では、キリスト教徒がほとんどですが、日本では、全人口の1%程度だそうですから、キリスト教の日本における政治的、経済的な影響力は、極めて限定的です。だから日本では、共産主義は、キリスト教に対する憎悪という形ではなく、天皇家や家庭制度など、伝統的な価値観を否定するという形で、広がりました。
日本人は、自分は神様など信じていないから無神論者だ、と思っている人が、多いのではないでしょうか。だから、共産主義の主張に対しても、比較的寛容です。
しかし、共産主義の無神論は、日本の無神論とは異なります。日本の無神論は、「神はいるかどうかわからないけど、どちらでもいい」という、無関心論です。しかし共産主義の無神論は、「神は絶対にいない」と断言する、積極的無神論であり、その性質は攻撃的で、他罰的です。
西洋社会では、共産主義の、キリスト教を背景とする秩序と伝統を破壊する、様々な戦略戦術に対して、とても敏感です。
しかし、日本社会では、もともと神に対して無関心ですから、免疫がありません。LGBTや、性の解放などに対して、日本社会が無防備なのは、この辺りが原因なのかもしれません。
共産主義は、階級闘争による革命を理念の中心に据えており、前述の通り、本質的に攻撃的で他罰的です。
日本人が、ぼーっとしていると、知らないうちに、日本の伝統的な価値観が破壊されてしまうということに、なりかねません。
日本の保守層は、共産主義の本質とその脅威を、十分理解する必要があると思います。